ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち

解説

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この映画は“イギリスのシンドラー”と呼ばれ、ノーベル平和賞候補にもたびたび名を挙げられた愛と勇気の人ニコラス・ウィントンの驚くべき活動の足跡と、彼に救われた人々の人生をたどり、子どもたちの命を救うことの大切さを世界に伝える感動のドキュメンタリー。モントリオール世界映画祭最優秀ドキュメンタリー映画賞、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭観客賞はじめ、世界各国の数多くの映画賞に輝く傑作です。

第二次大戦開戦前夜のヨーロッパではナチス・ドイツの台頭により迫害を受けたユダヤ人難民が各地に大量に発生するなか、ユダヤ人の子どもたちを安全な国に疎開させる<キンダートランスポート>と呼ばれる活動が活発化していました。ニコラス・ウィントンは、公的支援を受けずにチェコスロヴァキアでその活動を行い、669人の子どもたちを救いました。しかし、彼はそのことを家族にさえ一切話していませんでした。それから50年、発見された一冊のスクラップブックが彼の偉業を明らかにし、ニコラスとすでに高齢となった子どもたちの奇跡の再会が実現します。

しかし、本当の感動の物語はそこから始まります。今や世界各地で暮らす救われた子どもたちは、数多くの子や孫、さらにニコラスの物語に感動した人々とともに、様々な慈善活動に携わっています。これは、世界で一番大きく、今も広がり続ける“恩送り”の記録です。差別や迫害、難民問題は決して過去のものでも、他人事でもありません。あなたもぜひ、ニコラス・ウィントンからの善意のバトンを受け取ってください。

ストーリー

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1938年、第二次大戦開戦前夜のチェコスロヴァキア。イギリスのビジネスマン、ニコラス・ウィントンはナチス・ドイツによる迫害の危機にさらされていたユダヤ人の子どもたちを救うため、<キンダートランスポート>を実行し、チェコにおけるその中心人物となります。しかし、彼らの行動に世界は冷たく、多くの国々が協力を拒否し、門戸を閉ざしました。唯一子どもたちの入国を受け入れたのは彼の母国イギリスだけでした。ニコラスはイギリスで里親を探し、書類を偽造して、子どもたちを次々と列車で出国させますが、その活動は1939年9月1日の第二次世界大戦勃発によって中止を余儀なくされてしまいます。彼が救った669人の子どもたちはホロコーストの時代を生き延び、各国でさまざまな職に就き、また多くの子孫を生み、育てました。その数はいまや約6000人におよびます。

でも、ニコラスはそんな自らの偉業を誇ることはおろか、家族にさえそれを語ったことはありませんでした。その理由は、250人の子どもたちを乗せた最後の列車が、大戦勃発により発車できず、そのとき乗るはずだった子どもたちのほとんどが、その後強制収容所などで命を落としてしまったからでした。

それから50年後、1988年のある日、ニコラスの妻グレタが屋根裏部屋で埃を被った一冊のスクラップブックを見つけます。そこには彼が救った子供たちの詳細な情報が記載されていました。それを入手したイギリスのテレビ局BBCは子供たちの行方を追い、生放送の番組内でニコラスと再会させるサプライズを計画します。そしてそれは、人々を涙と感動で包む奇跡の瞬間となりました。 映画は、再会シーンはもちろん、そこに至るドラマチックな経緯、さらにニコラスの愛と善意が驚くほどの影響力を持って今も世界中に広がり続けている姿を追っていきます。

ニコラス・ウィントンとは

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1909年5月19日、イギリスのロンドン市ハムステッドに生まれる。

1923年に名門ストウ・スクールに入学、数学が得意でフェンシングに熱中するが、17歳のときに平凡な大学進学よりも実学を選び、自主退学して夜学で専門知識を学びながら銀行員の見習いとして働いた。その後、ドイツのハンブルグとベルリン、さらにフランスのパリで銀行員研修を受け1931年に帰国、ロンドンの銀行に勤めた後、証券会社を経てロンドン証券取引所の仲買人となった。その一方、彼はフェンシングでイギリスの代表に選ばれ、オリンピックの強化選手としてトレーニングを積んでいた。だが、1940年に開催されるはずだった東京オリンピックは日本が開催を返上、実施されなかったため、彼もオリンピックに出場することはなかった。

1938年12月、友人マーティン・ブレイクの誘いでチェコスロヴァキアの難民キャンプを訪れた彼は、子どもたちだけでも救いたいと、すぐにキンダートランスポートの準備を開始、1939年3月14日から8月2日までの間に、669人の子どもたちを救出させた。だが、1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻による第二次世界大戦勃発のため250人を輸送するはずの最大の輸送が中止を余儀なくされてしまう。その作戦の中止に心を痛めたニコラスは、以後、彼が関わった子どもたちの輸送に関して一切口を閉ざし、自らは赤十字に参加してフランスで難民支援活動を続け、1941年には英国空軍に入隊してパイロットとなった。

戦後、彼は難民支援や戦後賠償に関する各種機関で働いた後、1948年にパリの国際復興開発銀行に就職、そこでデンマーク人の秘書グレタと出会い、10月に結婚。52年に長男ニック、53年に長女バーバラ、56年に二男ロビンと3人の子どもに恵まれたが、ロビンは5歳の若さで世を去った。

イギリスに帰国し、メイデンヘッドに新居を構えた後、様々なビジネスで成功を収めると同時に慈善活動も継続的に行った彼は、その名がまだ世界に知れ渡る前の1983年、長年の慈善活動に対して大英帝国勲章を叙勲した。

80年代の後半、屋根裏部屋でグレタがキンダートランスポートに関する一冊のスクラップブックを発見、それがBBCの手に渡り1988年に人気番組“THAT’S LIFE”で取り上げられるとニコラス・ウィントンと彼に救われた子どもたちの感動的な物語は世界を駆け巡り、彼は一躍ヒーローとなって、多くのメディアが彼を取り上げ、数多くの関連書籍が出版され、映像作品が作られた。

1998年にチェコ共和国のハヴェル大統領からトマーシュ・マサリク勲章を授与され、2008年には同国からノーベル平和賞候補に推奨された。2003年には、エリザベス女王から騎士の称号を与えられ、同年のプライドオブブリテンアワードも受賞。2008年には女王のヨーロッパ歴訪に同行した。

2009年、チェコのプラハ駅に銅像が建てられた他、イギリスのリバプール・ストリート駅やメイデンヘッド駅にも銅像が建てられている。

2015年7月1日、ニコラス・ウィントンは子どもや孫たちに囲まれながら106歳で天寿を全うした。

登場人物&スタッフ

  • 救われた子どもの一人。オーストリアのウィーンに生まれチェコスロヴァキアで育った。両親は収容所で死亡。ブリティッシュ・コロンビア大学を卒業後、記者として活躍。66年からはカナダのTV局CBCの記者として世界を駆け巡り、ニュース番組のキャスターなども務め、90年に出版した「Time Zones: a Journalist in the World」はベストセラーとなった。国際エミー賞を受賞したマテイ・ミナーチュ監督の“THE POWER OF GOOD”(02)でもホストとナレーションを務めている。カナダ在住。

  • 救われた子どもの一人。少女時代の想い出を綴った著書「キンダートランスポートの少女」(未來社刊)を発表、マテイ・ミナーチュ監督の“THE POWER OF GOOD”と本作の原案書籍となった。

  • 救われた子どもの一人。物理学者。プリンストン大学で半導体の研究に携わり、宇宙探査船ボイジャー1号、2号の計画に参加。アメリカ在住。

  • チベット仏教の最高指導者。本名テンジン・ギャツォ。1956年にインドに亡命し、チベット亡命政権を樹立。1989年にノーベル平和賞を受賞。

  • ルーマニア出身でアメリカ在住のユダヤ人作家。1944年にアウシュヴィッツ収容所に送られるが奇跡的に生還、その体験をもとに1967年に小説「夜」を書いた。その後も数多くの作品を発表し、1986年にノーベル平和賞を受賞。

  • 1979年4月29日、プラハ生まれ。93年にプラハ音楽院で演劇を学びはじめ、在学中の95年、15歳で“ Indianske leto”で映画デビュー。その演技が注目を集め、チェコの映画、テレビ、舞台で重要な役柄を次々とこなして人気女優となる。その後、「アンネ・フランク」(01) 、「アヴァロンの霧」(01)「デューン 砂の惑星」(01)、「デューン 砂の惑星Ⅱ」(03)など海外の大作TVドラマに出演。脇役ながらマーサ・クーリッジ監督の『プリティ・ガール』(04・未)や『ナルニア国物語/第2章 カスピアン王子の角笛』(08)などのハリウッド映画にも進出した。10年にはチェコの巨匠ヤン・シュヴァンクマイエル監督の『サヴァイヴィングライフ~夢は第2の人生』のヒロインに抜擢されて世界的知名度を獲得。今やチェコを代表する女優の一人となっている。出演作には他にTVシリーズ「ミッシング」(12)、「クロッシング・ライン~ヨーロッパ特別捜査チーム~」(13-14)、「トランスポーター ザ・シリーズ」(12)、TVムービー「イエス・キリスト 磔刑の真相」(15)、紀里谷和明監督の『ラスト・ナイツ』(15)などがある。

  • 1976年7月4日、ズノイモ生まれ。98年のチェコ+スロヴァキア合作“Stuj, nebo se netrefím”で映画デビュー。 現在TVを中心に活躍している。日本公開作には『クーキー』(10)がある。

  • 1961年、チェコスロヴァキア(現スロヴァキア)のブラチスラヴァ生まれ。ブラチスラヴァ芸術音楽大学で映像演出を学んだ。99年に第二次大戦中の母の体験談を描いた“ALL MY LOVED ONES”で監督デビュー。そのリサーチ資料として読んだヴェラ・ギッシング著「キンダートランスポートの少女」に感銘を受け、劇中にニコラス・ウィントンを登場させた。さらに02年にはニコラス・ウィントンの偉業を追ったTVドキュメンタリー“THE POWER OF GOOD”の製作、監督、脚本を手掛けて国際エミー賞をはじめ数々の賞を受賞した。ニコラスとの仕事を続ける中、彼に救われた子どもたちからの手紙や情報の整 理を行い、08年には書籍「THE LOTTERY OF LOVE」を出版。ニコラスと彼に救われた子どもたちに関する決定版として本作『ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち』を手掛け、世界の映画祭で数多くの賞を手にした。最新作はホロコーストを生き延びたスロヴァキアで最も有名な女性カメラマン、ズザナ・ミナチョヴァの半生を描いたドキュメンタリー“THROUGH THE EYE OF THE PHOTOGRAPHER”(15)。

キンダートランスポートとは?

キンダートランスポート(子どもの輸送)とは、1938年12月から第二次世界大戦が開始する39年9月までの間に、ドイツ、オーストリア、チェコスロヴァキアのユダヤ人の子どもたちがイギリスに送られた救出活動のことをいう。わずか9か月間に、ゼロ歳から17歳までの子どもたち約1万人が家族と別れてイギリスに入国したのである。

キンダートランスポートの背景となったナチ政権の対ユダヤ人政策について、まず簡単に説明しておきたい。ナチ政権といえば、600万人近くのユダヤ人を殺害したホロコーストの荷酷さのため、最初からユダヤ人殺害政策が決まっていたようなイメージがあるが、ナチ政権がまずとったのはユダヤ人の強制的出国政策であった。1933年のナチ政権成立直後から、ユダヤ人に対する差別政策がすぐさま開始されたが、ドイツのユダヤ人たちのドイツへの帰属意識は強く、当初なかなか出国しようとしなかった。失職させられ、公民権を奪われ、社会生活からも経済生活からも排除されていくにつれ、多くのユダヤ人たちが出国を決意するようになった。しかし出国希望者が増加していくと、世界各国は彼らに対して扉を閉め始め、ユダヤ人たちが受け入れ国を得るのは非常に困難になっていった。アメリカ合衆国はドイツからの年間移民許可数の上限を変えようとはしなかったし、他の国々も完全に入国を拒否するか、高額な保証金を要求するなどさまざまな条件をつけ、ユダヤ人難民の流入を阻止したのである。

1929年の大恐慌後はどの国も国内に多くの失業者をかかえており、難民の大量流入は失業者を増やし、国内の反ユダヤ主義を強めるのではないかという内政上の不安もあった。また彼らを受け入れれば、ヒトラーは迫害を強め、ますますユダヤ人難民が増加する危惧もあった。実際のところ、ヒトラーの強制出国政策の目的の一つは、ユダヤ人たちの資産を奪い、貧窮化したユダヤ人を大量入国させて、相手国の負担にさせることであった。

ドイツにおける反ユダヤ主義政策は激しさを増し、1938年11月はじめにはクリスタルナハト(水晶の夜)と呼ばれる大規模なユダヤ人迫害が起こった。ユダヤ人商店の破壊やシナゴーグ(礼拝堂)への放火が行われ、ユダヤ人男性約3万人が逮捕され強制収容所(この当時は主に社会主義者や共産主義者たちを収容)に送られたのである。彼らの釈放条件は即時の出国であり、どこかの国の入国許可証など出国可能性を示す書類を提示できれば釈放された。この時期になるとドイツのユダヤ人たちはドイツに残ることは死を意味することだと強く認識させられたが、家族全員で出国するのはもはや不可能であった。そこでユダヤ人の親たちは子どもを少しでも早く、先に安全なところに避難させようとしたのである。

そのような状況のなかで、ユダヤ人の子どもを助けようとする国際世論が急速に高まった。イギリスではユダヤ人団体とキリスト教会、慈善団体が協力して、イギリス政府に請願し、11月末に子どもの入国許可を得ることができた。ただしその条件はあくまでも再出国までの一時的避難であり、子どもの引き受けにかかわるすべての業務は民間団体の責任で行い、かかる経費も民間団体が負担するというものであった。

イギリスの民間団体とドイツのユダヤ人組織の児童出国課の懸命な努力で、イギリス政府の受け入れ決定からわずか10日ほどの後に、第一陣の子ども200人がロンドンに到着した。児童出国課が出国させる子どもを選んだが、クリスタルナハトで強制収容所に入れられた年長の子どもや、孤児になってしまった子どもと、また少しでも多くの子どもを助けるために、負担が少なくて済むあらかじめ保証人や里親になってくれる人がいる子どもの出国が優先された。救える子どもの数はどれだけ寄付金が集められ、どれだけの人たちが里親になってくれるかにかかっていた。親たちは懸命に里親を得るためのつてを求め、またイギリスの救援団体も寄付と里親家庭を募った。

それに対し、チェコスロヴァキアでは、ドイツのようなユダヤ人出国組織はなく、またイギリスにもチェコスロヴァキアの子どもに特化して出国援助をする組織はまだ存在しなかった。チェコスロヴァキアがドイツの支配下にはいったのは、1939年3月のことであるが、ウィントンがプラハに行った38年12月当時のチェコスロヴァキアには、ドイツ、オーストリア、ズデーテンラント(38年秋にドイツに割譲)からのユダヤ人難民や反ナチの社会主義者たちなど25万人にも及ぶ難民が押し寄せ、悲惨な状況に置かれていた。ウィントンたちはこれから、非常に深刻な事態が起こることを予想し、すぐにチェコスロヴァキアの難民の子どもやユダヤ人の子どもの救援活動を開始した。彼は約3週間プラハに滞在して、そこで救援活動をしていたトレヴァー・チャドウィックと子どもの救出計画をたてた。映像には出てこないが、チェコ側で子どもの出発のための汽車の手配をはじめとするさまざまな業務を担当したのはチャドウィックを中心とするグループであった。

ドイツからのキンダートランスポートとは違って、組織も権限も何も持たない若者が自宅を事務所として、毎日株式市場での仕事が終わってから、友人や家族の手を借りて、入国許可証や旅行許可証の取得のための書類を作成し、また里親を確保する仕事を行ったのである。イギリス内務省がだした条件は50ポンドの保証金と里親の確保というものであり、もし戦争開始が遅れていれば、またさらに多くの里親が得られていれば、ウィントンのたぐいまれな実務能力でもっと多くの子どもが救われていただろう。彼のリストには6000人の子どもの名前があったという。

キンダートランスポートでドイツからイギリスに渡った子どもたちの多くはイギリスの家庭の他、ユダヤ人児童用の寮などにはいり、戦時生活を送った。年齢の高い男子の場合、ドイツ人として「敵性外国人」扱いされ、強制収容所に入れられカナダなどに送られて苦しい経験をした子どももいる。チェコの子どもたちの場合は、チェコ亡命政府がイギリスにおかれて、ウェールズにはチェコ人学校が創設され、チェコの教育を受けることもできた。

このキンダートランスポートのことは、戦後長い間ほとんど忘れられていたといってよい。それが知られるようになったのは、キンダートランスポート50周年を期して1988年に初めての再会の集いが開催されてからである。子どもの一人、バーサ・レバトン女史が中心となり、ラジオや新聞広告などで呼びかけ、1000人もの子どもたちが世界各地から集まってきたのである。全く偶然のことではあるが、チェコの子どもたちと命の恩人ウィントンとの再会が実現したのも同じ88年である。チェコの子どもたちの場合はその数年前に初めてのチェコ人学校の同窓会をひらいている。

その後、子どもたちの半生記なども多く書かれるようになった。なぜ自分だけ生き残ってしまったのかという生存者シンドロームに襲われたりするなか、苦しみや悲しみを語らぬことで自分を保ってきた子どもたちが、今語っておきたいという気持ちになった時期だったのかもしれない。イギリスに救われた子どもたちのことを改めて知った人びとは、子どもを手放した親の気持ちに心をはせ、戦争の危機が近づくなか子どもを引き受けた里親たち(俳優で監督の故アッテンボローの家庭も二人の女の子を引き受けた)に強い感銘を受けたのだった。こうしたなかで、特に感動の対象となったのが、自分は特別なことをしたわけではない、とあくまでも謙虚な人物、ウィントンだったのである。

パディントンとの関係

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http://www.paddington.com/

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